デフレ下にあった日本の経済は、インフレに一転。電解コンデンサのために用意した運転資金は、たちまちにしてその価値を失ってしまった。結果として、電解コンデンサ事業は、「高品質と作業標準化のシステム」という大きな財産を掌中に残したまま、断念せざるを得なかったのである。しかし、ただ座しているわけにはいかない。とりあえずコンデンサを作るために開発したpH計を製造、販売する決心をした。おりしも私たちが、国産初のガラス電極pHメータを完成させたのが、朝鮮動乱勃発の直前、昭和25年3月のことだった。ちなみに第一号のpHメータ納入先は、関東電化渋川工場、別府化学、および東洋紡犬山工場などである。
世情は、朝鮮動乱によって、特需やそれに刺激された内外需要の活性化がめざましく、化学工場をはじめとする各種工場で、pHメータの必要性が高まっていた。とりわけ、食料増産のための肥料作りが活況を呈しており、多くの化学工場が硫安の生産を増強していた。そして、いい硫安を作るには、pHメータが欠かせなかったのだ。
第一号のpHメータはN形(通称チョンチョン式)と呼ばれるもので、起電力の差だけをみるものだったが、私たちは研究・改良を続け、メータ直読形のM形(通称ブランコ式)、H形(木箱式)と相次いで改良品を市場に送り出すことになる。昭和26年には、大阪の北浜製作所を販売代理店として、本格的にpHメータの販売をはじめた。
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